こんにちは、さかいみる です♪
みなさまお変わりありませんか?
2週間くらい前から新作メチャくん絵本の絵コンテを描きはじめて没頭していました☆ お話を声に出して読んでみて、録音して聞いてみて、修正して、録音して聞いてみて…を繰り返し、今日からほぼ原寸大の鉛筆描きでラフの制作を始めます♪
さてさて、
これはずっと前のこと。すっかり忘れていた「絶望」がいつもの空間に現れたのです。
「あ、久しぶりに来てる。」と思ってみていると、どっしりとそれは腰を落ち着けたように動かなくなりました。深々とソファに沈み込む感じで、ため息なんてついているのです。「絶望がため息をついている。」こんな絶望的なことはありません。ロバのイーヨーより暗い感じ(イーヨーに失礼な発言☆)
居てもいいけど、これを持ち歩くのはちょっと重いかも。と思い、誰に聞くともなしに、
「絶望があって重いんだけれど、どうしたらいいかしら?」とつぶやいてみました。
すると、すごくクリアな無邪気な声で、
「どうして絶望がある方を選ぶの?どうして絶望がない方を選ばないの?」と、キョトンとした感じで言うのが聞こえたのです。その瞬間、すっぽりかぶっていた湿ったシーツを払いのけた気分になりました。ほんと、その通り!
そういうとき、まるで外側の何かによって選ばされているような気がしたり、「選択できる」ということ自体が忘れられてしまっているのだけれど、実は全て自分が選んでいる。ということに気づいてほっとしたのです。外側に向けられている心を自分の心自身に向けることで自分で選ぶことができるからです。
そして、私たちはいつでもどこでも選択できる自由があるんだということを思い出して、すぐ「絶望がない方」を選びました。すると、ハッピーではなくても、くつろいだおだやかさが戻ってきました。
絶望などがやってきた時に、ムリして楽しい気分を選ぶということではなくて、自分自身に平穏なふりをするということでもなくて、「絶望を選ばない」という選択もあるのだ。ということを思い出してもらえるといいなと思います。
日常の暮らしの中で、心理的な思考 (幻想領域) に住まうのか、ありのままのシンプルな「いま」に住まうのか、毎瞬、私たちには選択できる自由があると思うのです。
個我が「おいでおいで」する幻想領域への誘惑を通りすぎる意志を持つことがポイントだと感じます。
悲しみや怒りなどの感情も思考も感覚も全てやってきては去ってゆくものです。どんなに強い悲しみも途切れることなく永遠には続くことがないということを私たちは知っています。強い悲しみの途中で温かいお茶を飲んで一瞬ほっとしたり、きれいな花を見てほんの一瞬悲しみを忘れたり…。
つまり来ては去ってゆくものなのです。それをつなぎとめておこう。とか、追い出そう。とするのが個我の性質のひとつであるようです。無理やり追い出そうとしなくてもその時が来たらそれは静かに去ってゆきます。
そして、その感情や思考や感覚はどこにやってきて去ってゆくのでしょう。それはずっとつなぎ目のない、途切れることのない、じっと静かにそれらに気づいている、「それ」に現れては消えてゆくのだと感じます。そしてそれが、その全ての土台の方がわたしたちなのだと感じるのです。
私という自覚が現れた時から蓄積されてきた概念や習慣を強く強く信じ込んでいると、本質のわたしを自覚するのがむつかしく感じられます。
それでも、少しずつ、いつも気づいている意識の側にいるようになると、時々その幻想領域にちょっと足を踏み入れてしまっても、「いま、ここ」のこの瞬間の圧倒される輝きと深い平安の引力は濃く、やはり「いま、ここ」に戻ってくることになります♪
ではみなさま大雨にお気をつけて。優しい雨に変わりますように。
今までの記事をタグで整理してみました♪
*投影劇場シリーズはこちらから。
*心についてはこちらから。
*2018年ネパール滞在記全20話はこちらから。
*2017年ネパール滞在記全24話はこちらから。
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絵本deえがお美術館 は、毎週日曜日のみ12:00〜18:00までのオープンになりました。土曜日、平日にご来館希望の方は予めご連絡ください。アケマス♪
8月は夏休みです。8月中にご来館希望の方も予めご連絡ください。アケマス☆ いつも私たちのマイペースにお付き合いいただきまして、ありがとうございます!