投影劇場

こんにちは、さかいみる です♪

先日書きました「いきいきとした優しいからっぽ」の中に「投影劇場」という言葉を書いていましたら、「『投影劇場』について知りたい!」というリクエストをいただきましたので、自分なりに気づいたことを文章にすることにトライしてみます。
長くなりそうなので、長距離列車でガタゴトゆられる気分でどうぞ♪ お茶なんか飲みながらね♪

私が勝手に「投影劇場」と、呼んでいるだけなのですが…今まで私は「投影する。」ということを、例えば誰かや何かに対して、何かざわざわするような落ち着かない感じになったり、しょんぼりしたり、という、ちょっと持っていたくない感情が起こる時、「相手のそういう部分(自分では見たくないと感じている同じもの)が、自分の中にもあって、それを見つけそうになってざわざわする。」と、いうものだと思っていたのです。

それがある日、不意に「そうじゃなかった…。」と、気づいたのです。
もしかしたら、みんなもう知っていて、そう思い込んでいたのは私だけかもしれないのですが☆
また、私は絵本を書くことが仕事なので、心理学的には違うのかもしれないのですが、そしてそのケースによってたくさんの要素があると思いますので、私がそう呼んでいる「投影劇場」にのみ焦点を絞って書いてみますと…。

例えば、誰かの言葉に傷ついたとします。そしてその時、その相手を「人を傷つけることを言う人」と、したとします。
そうなった時に、「人を傷つけるようなことを言うような部分」が、自分の中にもあって、いやな気持ちになる。というわけではなくて、それをじっくり探ってみると、「自分が自分に対して深いところでそう思っている。しかもそれに気づいていない。気づいていないから相手に投影してしまう。」ということだったんだ!と、気がついたのです。
気づいていないことなので、それに気づくのがすごく難しいのですが、本当に正直にまっすぐ心の海に潜ってゆくと、「それ」を見つけることができるのです。そして、それを見つけたとき、びっくりするぐらい、ハラハラとそれが剥がれ落ちてゆきます。

それが大きなショックや怒りでなくても、日常の中で起こる些細な見過ごされがちなもの、ほんの少しのざわめき、そういうものの方が見つけにくかったりしますが繰り返される可能性も多いと思います。なので剥がれたときはスッキリ気持ちがいいです。

例えば、「この人は私のことを否定している。」と、思ったとします。(この時点でここまではっきり言葉になっていなくても、自分が「気分がいい」か「気分がよ
くない」か、というのは通常努力なく気づけています。なのでここでは気づいていることに気づくことがポイントかもしれません。)
でも本当は深いところで「私が私を否定している。」自分が自分を否定していることが明るみなりそうで、なんかざわざわする。水面に出てきそう、できれば気づきたくない(無意識で。ここでなぜ気づきたくないのかはまた今度…。)

これが「投影」と呼ばれているものだったんだ…!やったぁ!そうだったんだぁ!ららら♪ という気分でした(単純☆)
ただ、普段から「自分に現れる思い」をちょっと離れたところから見ている、ということに慣れていないとコツがつかみにくいかもしれません。コツを掴むまで何かざわめきを感じたら「書き出してみる」のもいいかもしれません。

でもその投影が剥がれてしまうと、仮に同じ人が同じことを言っても、全く捉え方が違うのです。ざわざわするどころか、全く気がつきもしない。という風になるのです。ムリやりポジティブになるのではなくて投影が剥がれ落ちて、シンプルにそのままを見れるようになった。という感じです。

そして、なぜそれを「投影劇場」と呼んでいるかと言いますと…、例えば二人の人がいて、自分と誰かとします。自分の中にイメージした自分と、イメージした相手がいます。相手にもおそらくイメージした自分とイメージした相手がいます。
つまり、ここで既に4つの微妙に(または全く)異なるイメージした人格のようなものがいて(さらにそれは変化してゆきます)コミュニケーションが行われている感じです。
これが、とても楽しく平和なときは何も問題もなくて、全力で楽しめます。そういう状況では、その「イメージされている人格のようなもの」というのは、より少なくなっているのかなと思います。でも、そういう平和な状態ではないときとか、これがもっとたくさんの人になってくると、
「さぁ、役者は揃った!投影劇場の幕が上がる…。」という感じだなぁと思って、「投影劇場」と呼んでいるのです。

「じゃあ、どうしてイメージを作っちゃうの?」となると、とても長くなって今回だけでは書ききれないので、簡単に「心」と呼ばれているものに焦点を当てたものを書いてみたいと思います。

心は形もなくて、全くつかみどころがないような感じがします。
それをここでは説明上あえて物体のように書いてみますと、透明でぴかぴか光り輝く玉のようなものが心だとして、それに「思い込み」を書き込んだ薄い紙のようなものをぺたぺた貼りつけていってて、それがたくさん貼りつけられてくると、そのぴかぴかの輝きが弱くなったような気がしたり、ぴかぴかの玉が見えにくくなったり、輝きや光が周りに届きにくくなったり…。
そしてそれを相手にも同じことをしているとすると…相手のぴかぴかに光り輝く心の玉に相手への「思い込み」「判断」などを書き込んだ薄い紙をぺたぺた貼ってゆくと、相手のその心の玉の輝きも見えにくくなってしまいます。
でも、その紙をはがしてゆくと、どんどん心の輝きを感じられるようになる。紙が貼られていても、剥がされても、その光り輝く心の玉自体はずっとそこにあって何も変わっていないのです。ただ、その紙をたくさん貼っていたから見えにくくなっていた。だけ。という感じではないかなと思うのです。

そして、その紙を貼ることも剥がすことも自分で選べる。というところが私は気に入っています。そして自分からその紙が一枚剥がれると、不思議と相手からも剥がれるようです。つまり、本当は心は物体ではないので、その光り輝く心は繋がっているから。ということなのだと思います。そして、”繋がっている” というのは、それぞれの心の玉同士が繋がっているというのではなくて、心の玉が現れている ”場” がひとつだから ”つながっている” ということなのだと感じるのです。(このことについてはこちらを。)

そして、その投影劇が行われていないとき、その舞台(?)を静かにずっとみつめていると、それはとても素朴で優しいくつろいだ、のびのびした空間になります。まるでなつかしい居心地がいいおうちにいるような…。(そしてこの空間が実は…というのも次の機会に…。)

体験してみると、とても心が軽やかに自由になるので、何か心にざわめき起こったときは正直に(ここポイントです☆たとえ自分に対してちょっと気まずくなったりしても☆)心の海に潜ってみるの、オススメです♪ 心のざわめきは、こころという大海にダイブするチャンス☆

本当にそこから完全に去った方がいい場合は、「これは投影劇だ。」と、無理に言いきかせずに去った方がいいと思います。もちろん。

今の時点で言葉にできるせいいっぱいで文章にしてみました。


*投影劇場シリーズはこちらから。
*心についてはこちらから。
*2018年ネパール滞在記全20話はこちらから
*2017年ネパール滞在記全24話はこちらから

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